[第一話 サクラ咲く]

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No.03 舞姫


 桜が次々と開花していく。
 立ち竦み、空を仰ぐ二人が呆然としていた時間は五分も経っていなかった。けれど木の枝についていた小さな蕾が、勢いよく膨らみ、開花していくさまを見守る体感時間は、五分ではなく永遠に感じられる。
『散る。桜、散る』
 裏声を使用した、安物の鈴に似た声。
 びくりと肩を震わせて、久樹は目撃した。口元に桜色の扇子をあてた娘が、少しずつ移動している気がする。空中に浮いた娘の足は、微動だにしていないというのに。
 抱き合う形で、娘を背後にしている体勢の斉藤爽子は異変に気づいていない。満開になった桜が、花びらを落とす光景に釘付けになっている。
「爽子」
 緊張した声で、久樹は爽子の肩を揺さぶった。呆然としていた瞳がはっと見開かれ、まばたきの後に、真剣な幼馴染の表情を確認する。どうしたの、と口を開こうとした彼女の唇に人差し指を置いて、叫ぶなよと久樹は合図した。
「いいか。絶対に振り向くなよ。さっきの女がこっちに向かってきている。俺が合図するから、そしたら走るんだ。白鳳館に戻ろう」
 長期休暇期間中の学園内は、人が少ない。
 突然の桜の開花と空中に浮かぶ娘を前にしても、助けを求める相手がいなかった。通りかかる可能性も少ない。ならば学園の職員が確実におり、先程出会った少年達もいる白鳳館まで戻ったほうが得策だ。
 爽子が素早く肯いたので、久樹は彼女の二の腕を強く掴み、もう一度確認する。
 先程まで口元を隠していた扇子を袂に挿した娘は、何処を見ているか分からない不透明な眼差しを前方に向けていた。顔は過剰な白粉と塗りすぎた口紅で覆われている。両手はだらりと下げられていて、まるでお化け屋敷においてある日本人形のようだった。
「不気味だな」
 振り返った久樹が低く呟く。
 空に浮いていることでも、人形のように見えることだけでもない。娘が何を考え、何をしようとしているかが全く分からないことこそが、不気味だった。
 相手が何を狙うかが分からない以上、やはり一度逃げた方がいい。
「一」
 数をカウントし始めた。何故か、昔こうやってよく駆けっこをして爽子と遊んだことを思い出す。
「二の……」
 爽子が次の数を口にした。二人の視線が空中でぶつかり、続けて「三っ!」と同時に叫ぶ。久樹は体の向きを変え、爽子は先に前に飛び出した。
 走り出すとすぐに、二人が背にした方向で鈍い音が響き始めた。何年も閉ざされていた土蔵の扉を、ゆっくりと開けていく音に似ている。
「何、今の音っ?」
「俺に聞くなよ!」
 口々に叫びながら、二人は振り向きたい衝動を必死に抑えた。
 背後で響く重々しい音は、次第に轟という音に変わって行く。満開になった桜が落とした花びらが、引き寄せられるように背後に流れていく。
 爽子は流れていく花びらと、前に出す足に抵抗がかかり始めたことに気づいて、声を上げた。
「ねぇ、吸い込まれてるんじゃない!?」
「巨大掃除機でもあるってか?」
 くだらない返答だが、久樹の顔には焦りがある。爽子に指摘される前に、彼も気づいていた。膝から下の部分で、風が二人を背後に押し流そうとしている事に。
 風の鳴る音に、別のざわめきが不意に加わる。
 枝がさざめく音だ。続けざまに、上空から桜の花びらが落ちてくる
 尋常な量ではない。すぐに二人は、太股のあたりまで桜の花びらに埋められた。風は突如風向きを変え、今度は二人の上半身を飛ばす勢いで吹き荒れる。
 ごうごうと音を発し、吹き荒れる風に舞う花びらは、吹雪を連想させた。
「な、によ、これっ!」
 太股まで花びらに埋められて、殆ど走れない。上半身は風に押され、気を抜くと背後に倒れそうになる。足が止まってしまう幼馴染の腕を掴み、久樹は引きずるようにして前に進もうとした。
『……綺麗であるべきだって思うの』
 声。
 ふぅ、と久樹の耳元に暖かな風が触れる。
 腰から首筋にかけて、寒気が走った。前に進もうとする意志が一瞬挫けて、久樹は立ち止まってしまう。距離を狭めてきた娘が、背にぴたりと体を添わせている。
 温もりは感じない。それどころか、凍り付くほどの冷たさが忍び寄ってくる。
 耳にかかる生暖かい息だけがリアルだ。振り向いてはいけないと、久樹は己を必死に戒める。『ねぇ』と声が掛けられた。
 突如前を睨む久樹の視界に、手が飛込んできた。
 二の腕までたくしあがった緋色の襦袢が見えた。合計十本の指が見える。感触は白蛇の鱗のようで、凄まじい恐怖を覚えた。全身が粟立ち、体が硬直する。
「久樹っ!」
 腕を取っていた久樹の異変に爽子は叫び、続けて振り向いた。
 勝気な印象を与える漆黒の瞳が大きく見開かれる。久樹の背におぶさるようにして、娘がのしかかっていた。黒いだけの瞳が持ち上がって、一瞬だが確かな意志を窺わせて爽子を見る。ニタリ、と娘は笑った。
 爽子は息を飲む。久樹は内心「振り向くなって言ったろ」と幼馴染を叱咤した。爽子は忙しくまばたきをして「走って!」と大声を上げる。
 娘はもう一度笑った。
『綺麗な、綺麗な、その時にね』
 小声だが、やけに耳に響く声で娘が囁く。同時に、前に伸ばしてあった両手を動かし始めた。初めは指先を組み合わせたりして遊んでから、ゆっくりと久樹の首筋へと指を動かせてくる。
 白い指が彼の首に辿り着いた。最初はそろりと触れて、次いで動脈の場所を確かめるように動き、最期に柔らかな肌に指を食い込ませ来る。
 赤く塗った爪が、久樹の肌に鬱血した痕を付けるのを見て、爽子は絶叫した。


 ぴたりと川中将斗が停止した。
 立ち止まったのではなく、まさに停止と表現するのが相応しい。
 扉を開けようと持ち上がった指もそのまま、まばたきをしようとしていた瞼は少し降ろされた状態のままだ。
「将斗?」
 歩く速度が違う為、大江雄夜は既に白鳳館の中に姿を消していた。声を掛けたのは、将斗と共に歩く従兄弟の中島巧だ。
 将斗の瞳の動きが奇妙だった。視線が何かをハッキリと追っているのが分かる。だが瞳の先には変わったものは一つもない。巧が首を傾げると、将斗はいきなり両手で従兄弟の肩を掴んだ。大学部水鳳館の方角に向き直る。
「巧、走れっ!」
 叫ぶと、両肩に置いていた手を離して走り出した。巧は一瞬立ちすくんだ、すぐに脱兎の勢いで走りだす。
 川中将斗は、時折遠方の映像を見ることが出来る。彼が好意を抱いている相手の身に何かが起きた時、それを見ることが多かった。
「将斗っ! 何が見えたんだよ!」
 追いかけながら巧が尋ねる。将斗の瞳はまだ遠くの”何か”を見ていて、瞳が忙しく動いていた。
「白いんだっ!」
「白い!? 何がだよ!!」
「視界がさ。見える全てが白いんだ。違う、白じゃない、薄いピンクになってるんだよ! そこで、一瞬悲鳴を上げてた爽子姉ちゃんが見えたんだ!」
「爽子さんが!?」
 ぴくりと巧の眉が持ちあがった。
 小学生の中島巧は、今年大学生になった斉藤爽子に片思いをしている。
 きっかけは一目惚れだった。爽子は巧が思い描いていた理想の女の子そのものの顔立ちで、性格も優しい。挨拶をすれば、笑顔で挨拶を返してくれる。その上料理も上手だった。
 今は子供と大人のように思われるだろうが、両方が大人になってしまえば七歳程度の年の差は問題なくなると巧は固く信じている。だから巧は爽子を姉ちゃんとは滅多に呼ばない。
 好きな人の危機と聞いて、巧の瞳に重い緊張が走った。全速力で駈けて、水鳳館を迂回する道へを曲がる。
 まさに白だった。
 大気を埋め尽くした桜の花びらが乱れ飛んでいる。まさに桜吹雪だ。
 爽子の居場所が掴めず、巧は何度も名を叫んだ。けれど返事が得られない。
 異常現象を前に、逡巡している暇はなかった。桜吹雪の中に飛び込み、助けに走るしかない。問題は地面を桜の花びらが高く埋め尽くして、走れるような状態にないことだった。
「地面っ! 地面、出て来いってぇの!」
 巧は苛立って叫び、いきなり両手を積もった桜の上に置いた。大きく開いた口腔内に入ってくる花びらが不快だが、今は無視する。とにかく意識を両手に集中した。
 指先が大地の鼓動を捕らえる。
 ぐずりと音がした。地面を埋めた花びらの一角が崩れ、逆に地中から盛り上がってくるものがある。土だった。アスファルトに閉じ込められていた土が、突如姿を現したのだ。
 土は巧の為に道を作り上げていく。手早くその上に飛び乗って、巧は走り出した。
 一方、川中将斗は桜吹雪の中には飛び込まず、意識を集中して気配を探っていた。既に巧の後姿は桜吹雪に消されて見えなくなっている。中に入った巧が、爽子を発見できない可能性が高かった。ならばと、ナビゲーターの役割を将斗は自らに課す。
 爽子の居場所と巧の位置を懸命に探り、目指す方向を必叫ぶ。その甲斐あって、巧は不気味な娘に覆い被さられている見知らぬ男を発見した。焦りを含んだ女の声も聞こえる。近くに斎藤爽子がいるのは間違いない。
「爽子さんっ!」
 居所を求めて巧は叫んだ。
 爽子は背を震わせて、声の方向に体を向ける。すでに桜の花びらは、彼女を胸の辺りまで埋め尽くし自由を奪っている。
「なに?」
 盛り上がりが見えていた。
 左右に花びらが割れ、音と共に地面が盛り上がって道を作っている。真っ直ぐに向かってくる道の上を、少年が駆けた。
「巧くん!」
 まさか人が走って来るとは思っもみなかった爽子の声に驚きが加わる。巧は爽子の場所に気付いて、さらに距離を詰めた。
「大丈夫!?」
 埋められている爽子に向かって少年は手を伸ばす。無意識に爽子が巧の手を握り返すと、ぐらりと体が激しく傾いだ。
「な、なに!?」
 地面が盛り上がったのだ。はらはらと、彼女を埋めていた花びらが左右に落ちる。驚いた爽子に、巧はわざとらしい笑顔を浮かべて見せた。
「大丈夫だよ、ちょっとした……えっと、その、手品みてぇなもんだから!」
「手品?」
「それより、爽子さん大丈夫?」
 心配そうな巧の言葉を受けて、爽子は肯く。
「わたしは大丈夫。でも、久樹が……」
「爽子さん、久樹って誰?」
「あの人っ」
 腕を上げて指し示す。巧は視線を移して、背中から男に圧し掛かっている不気味な娘と、圧し掛かられて首を締められ蒼白になっている男とを見比べた。
「爽子さん、あんなのと幼馴染なの!?」
「え? 何を言ってるの?」
「だってさ、爽子さんの幼馴染だろ!? きっと美人なんだって思ってたんだぜ! ちょっと、アレは不気味じゃねぇ!?」
「巧君、私の幼馴染は、あの女性じゃなくって、男の方よ」
「男!? ……爽子さんの幼馴染が、男ーーー!?」
 この世の終わりを目撃したような顔で、巧が絶叫する。異常な現実を前に、何故に幼馴染が男である程度のことで絶叫されなくてはならないのかが爽子には分からない。そうしている間にも、久樹の首に巻きついた娘の指は力を増して行く。
 彼の顔が鬱血していくのが良く分かった。血が回らなくて、必要な酸素が欠乏し始めているのだ。早く助けなければと、爽子は再び桜の花びらで埋められた場所に飛込もうとする。慌てて巧が手を引っ張って止めた。
「だ、ダメだって!! さっきは運良く大地が言うこときいてくれたからいいけど、またきいてくれるとは限んないんだからさっ!」
「いうこと聞いてくれるって、何の話し? 早く助けないとっ」
「ああ、なんか腹立つっ! ねぇねぇ、爽子さん。あの人って恋人なわけ!?」
「ええ!? な、な、ななな、何を言ってるの!? 幼馴染よ、幼馴染っ!」
 いきなりの質問に、動転して爽子は口篭もりながら否定する。疑わしげにしばし見つめてから、こくんと巧は肯いた。
「分かった。友達は大事だよな。でも、成功すっかわかんねぇからな。爽子さん、絶対の俺から離れないでくれよっ!」
 凛々しく叫ぶと、土が盛り上がって足場となっている場所に巧は手をつけた。声を掛けるのもためらわれる程に真剣な表情を浮かべ、ぶつぶつと土に向かって話し掛けている。
「巧くん?」
 おずおずと尋ねた爽子の言葉も耳に入っていないようだった。
「震えろ!!!」
 パンッ、と激しく手を打ち鳴らして、巧は叫んだ。
 足の指先から振動が伝わって来る。本能が恐怖を覚えて爽子は巧の肩を掴んだ。
 前兆もなく、いきなり激震が始まった。
 地面が割れていく。次々と土の塊や岩石が飛び出してきた。はっきりとした攻撃の意図が感じられる。
 ソレは猛っていた。巧の願いを聞きいれて、大地そのものが猛っていた。
「……やばい、暴走してるっ!!」
 立っていることも出来なくなった激震の中、爽子は久樹の上に圧し掛かっていた娘が消えたのを確認した。圧迫された喉を押さえて、激しく咳き込んでいるのが見える。必死に名前を呼ぶが、土砂の音にかき消されて届かない。
 駆け寄ろうと足を踏み出すが、大量の土砂が二人の間を裂くように雪崩れ込んでくる。
「久樹ぃーー!!」
 土煙に眼をやられながら、爽子は悲痛な叫び声を上げた。土砂が彼を巻き込んだように見えたのだ。巧も蒼白になる。
「やべぇーーーーーー!!!」
 大地は巧を守り、側にある爽子も守っている。だが久樹は守られていなかった。
 なにせ中島巧は、織田久樹に対して爽子の幼馴染が異性だったというだけで嫌な印象を抱いている。
 大地が、織田久樹に攻撃を仕掛けるも無理はない。
「待った!! それ、それ待った!!」
 慌てて叫ぶが効果はない。
 爽子が久樹のいた場所に向かって走り出そうとした。巧は慌てて彼女を食い止める。
「あれっ!」
 巧を振り払って、駆け寄ろうとしていた爽子が上空を指差して叫んだ。見上げると、久樹が居た場所に向かって、空中に舞い上げられた岩石が下降を始めている。
 押しつぶそうとでもいうのだろうか。
「久樹っ!」
 爽子の声は、すでに涙声になっていた。
 岩石が落ちる。二人は小さな炎を見つけた。周囲の空気が圧縮されていくような気がした。ひどく恐ろしいことが起こるような不安にかられる。
 何が起きるのかと茫然となった二人の元に、駆け寄ってくる二人が居た。風の流れに異変を知った秦智帆と、炎の気配を感じた大江静夜だ。
「巧っ!! 爽子さん、伏せろっ!」
 気配をも切り裂くような、少し高い声を響かせて静夜が叫ぶ。立ち尽くしている二人の首筋を押さえ込むようにして大地に伏せさせ、頭を守るために抱き込んだ。息を静め、少女のような目を細めて一つの気配を呼ぶ。――祈るように水を呼んだ。
 キィン、と音が響いた。
 涼しげであり、どこか透明な清らかな音。薄いヴェールが舞い下りてくる。
 同時に、智帆は指先を空に伸ばした。四人を守るために舞い下りてくる水の結界であるヴェールと同調する、淡い緑色の光を指先から発する。
「竜巻っ!」
 智帆が一声叫ぶと、風は勢い良く上空へと巻き上がった。身を翻し、静夜のすぐ側へと駆け寄る。
 ――刹那。
 空気中の酸素が圧縮され、小さかった炎は巨大な力を得た。そして突如爆発した。

竹原湊 湖底廃園
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