[第一話 サクラ咲く]

前頁 | 目次 | 次頁
No.03 緋色の残像


 目的地である水鳳館横手の道路に辿りつくと、会話する声が巧を先頭にする一同の耳を打った。
 萌黄色のスーツを着た女性が盛んに首を振っている。女性の前に立つ白衣の青年は、首を振り、身を乗り出して何かを訴えていた。
「あっ!」
 爽子は驚いた声をあげて、目をしばたいた。
 萌黄色のスーツの女性は、爽子と時折遊ぶこともある、知り合いの本多里奈なのだ。
「本多さんだわ。一緒にいるのは康太先生よね」
 普段はのんきな雰囲気の統括保健医大江康太は、真剣な表情をしている。
 気になって耳をそばだてた。
 大丈夫なんですから、と里奈は口にしていた。
「康太先生、本当に私ちょっと転んだだけなんですから」
「でもね、本多くん。君を介抱した生徒によると、君は十分以上も気を失っていたらしいんだよ。転んだだけで済まして良いとは思えない。頭を打ったかもしれないんだ」
 ちゃんと調べたほうが良いと主張する康太に、里奈は首を振る。
「大丈夫です。そういえば私、転んだ時に視界が真っ白になったんです。きっと軽い貧血を起こしたんだと思います」
「あのね、本多君。貧血を馬鹿にしてはいけないよ? たかが貧血と思っていると、取り返しのつかないことにもなるんだ。尚更このまま帰すわけにはいかなくなってきたよ」
「そ、それは困ります」
 強硬に言い張る康太を前に、里奈は肩を落とす。
 聞き耳を立てていた爽子は、間に入る必要があると思って走り出した。
「本多さんっ!」
 注意を促すために、大きな声で名前を呼ぶ。
「あ。斎藤さん」
 里奈は知った人間の声にホッとした表情を浮かべて振り向いた。走ってくる爽子の背後に佇んでいた久樹に気づいて、あら、と呟く。里奈は学生課で突然座り込んでしまった久樹を見ているのだ。
「斎藤さん、幼馴染くん元気になって良かったわね」
 里奈の言葉の意味が分からず、一瞬ポカンとしてから爽子は思い出した。学生課で、時々久樹は貧血を起こすと自分が言ったのだ。
 慌てて笑顔を作り、爽子は頭を下げる。
「良くあることなんで、治るのも早いみたいです。それより、本多さんこそ何があったんです? 二人して真剣な顔をして」
「斎藤さん。一緒に康太先生に言ってくれない? 私も斎藤さんの幼馴染と一緒で、時々貧血起こすの。だから病院にも行ったけれど、特に問題ないって言われたの。だから大丈夫だって力説してるんだけど」
「そうなんですか。康太先生、里奈さん病院にはちゃんと行ってる、って言ってますよ?」
 病院と聞いて、硬化した表情を僅かに康太は緩めた。
「……病院にはちゃんと行ってるんだね?」
「は、はい」
 里奈の返事の歯切れが悪い。じつは病院に行ったのは、一年も前のことなのだ。
 康太はしばらく考えこんでから、仕方ないと肯く。
「ただし。次に貧血症状を起こしたら、すぐに病院に行くんだよ? 忙しい現代人の若者は、本当に病院嫌いが多いね」
 渋りながらも康太は納得する。このチャンスを逃してなるものかと、里奈は勢いよく頭をさげた。
「わかりました! では、私はこれで失礼します。斎藤さん、ありがとうっ!」
 軽やかに言うと、里奈はきびすを返して走り出した。小さな背を目で追いかけつつ、康太が「いきなり走らないっ!」と注意を飛ばす。
 里奈は一度首をすくめたが、走る速度を落とそうとはしなかった。
 走りながら、里奈は自分の腕を見た。
 びっしりと皮膚の上を占領しているものがある。全身が総毛だって、鳥肌が浮かんでいるのだ。見つめていると生理的な嫌悪感を抱いて、里奈は眉をしかめた。
 必死にこらえていたものがある。
 ――怖い。
 体の奥から沸きあがってくる恐怖。
 怖かった。何が怖いのかは分からないが、怖くて怖くて仕方なかった。
 あえぐように息をしながら、一瞬だけ背後を振り向いた。養護教員と生徒たちとが会話をしている。特に怖いと思う光景ではない。
 ――怖い。
 ぶるりと体を震わせて、更に加速しようと必死に腕を振った。
「私……分からない、なんであそこに居たんだろう。なんであそこで倒れたんだろう。分からない…思い出せないっ!」
 道を曲がって、背後の人々が見えなくなって初めて里奈は足を止めた。ぜいぜいと鳴る肺をなだめすかしながら、正常な呼吸に戻るのを待つ。両膝に手をおいて、重い上体を支えた。
 本多里奈は覚えていなかった。
 空中に浮かんでいた娘のことも、双子が不可思議な動きをしたことも。そして逃げ出した自分自身を、光球が追いかけて来たことさえも。
「怖い、怖い、怖い!!」
 ただただ里奈は、声をあげ、体を震わせるだけだった。
 
 
 小さな容器の中に、一滴、一滴と滴が落ち、そして管を通ってゆく。その様子を智帆は眺めていた。
 彼が座っているのは白いベッドの端で、ベッドの中では青ざめた顔色で大江静夜が眠っている。
「呼吸が安定したから大丈夫よ」
 カチャリと扉をあける音がして、うなじを露わにした上げ髪の女性が姿を現した。診察の時だけ掛けている眼鏡の下で、理知的な瞳が優しい色をたたえている。
「良かった」
「ところで、雄夜君はどこにいったの?」
「さっき反省と自己嫌悪のあまりに外に飛び出していきました」
「反省と自己嫌悪?」
 女医の顔が不思議そうに揺れる。智帆は皮肉っぽく笑って、眠る静夜に視線を落とした。
「静夜に無理をさせるのが嫌いなくせに、自分が無理をさせたからかな。自己嫌悪にかられるあまり、近所の親友の所に慰めに貰いに行ってるんですよ」
「あら、雄夜君って智帆君たち以外に親友がいたの?」
「シベリアンハスキー犬のスイ君と大親友かな」
「……。人間じゃないのね」
「人間とは言ってませんよ。俺は」
 にこやかに答えて、智帆はベッドサイドから立ちあがった。静夜が受けている点滴の様子を、女医が確認しに来たと理解したのだ。
「ん、大丈夫みたいね。それにしても、どうして倒れるほど疲れることをしてしまったのかしら。急いで回復させたいからって、ブドウ糖を点滴してくれなんて言われること、あまりないわ」
 首を傾げて呟く。その仕草がまるで少女のようだった。
 彼女の名前は内藤町子といい、白鳳学園近くにある内藤医院の院長の一人娘だった。――そして大江康太の恋人でもある。
「町子先生、康太先生からのプロポーズはまだ?」
「そうなのよ智帆君。康太さんったらね、まだはっきり言ってくれ……何を言わせるのよ、智帆くんっ!」
 はっとした顔になって、町子は頬を赤らめる。
 顔を真っ赤にして照れる様子からは、二十八歳という年齢が見えてこない。先生がひっかかるから面白くてと、しれっと智帆は答え、
「そうそう、康太先生もそろそろ来るよ」
「え? 康太さんも?」
 吊り上げていた柳眉を元に戻して、町子は恋する少女の顔になった。そわそわしながら、髪を手で押さえてみたりする。智帆は思わず笑い出した。
「町子先生、素直に鏡見てきなよ」
「……そ、そう? そうしようかな」
「ま、鏡見た程度じゃあ、そのふっくら頬っぺたは消せませんけど」
「意地悪ね! 智帆君ったら」
 澄まし顔の智帆を睨みながら、やわらかそうな頬を膨らませる。だが無言で時計を指差されて、慌てて町子は部屋の外に出ていった。
 パタン、と扉が閉まる音。
 再び静寂が戻り、ぽたん、ぽたんと液体が落ちる音と、規則正しい静夜の呼吸音だけが僅かに聞こえる。
 智帆は目を細め、駆けつけて見た光景を思い出してみた。
 
 
 最初に赤い霧を見た。
 次に意識のない静夜を抱きこんで、あらぬ方向を睨みながら名前を呼んでいる雄夜を見つけた。最後に萌黄色のスーツを着た女性が倒れているのを見つけ、駆けよった。
 肩を揺さぶるが、意識を取り戻す気配はない。
 一体何があったのか?
 智帆に医学の心得はない。女性が倒れた原因を付きとめる術はなかった。とりあえず保健医の大江康太にすぐ来るようにと携帯にメールをいれて、振り返る。
 雄夜は危害を加えてくるかもしれない、姿を消した敵を警戒したまま、やたら鋭い瞳で虚空を睨んでいる。唇は片割れの名前を繰り返していた。
「雄夜、何があった?」
 ――返事はない。
 溜息をついて、智帆はとりあえず女性の側近くにばらまかれていた書類をまとめ、側においてやる。
 それから雄夜と静夜の隣まで歩んだ。
「雄夜っ!」
 かなりの大声を雄夜の耳元で出す。
 びくりと彼の体が揺れた。智帆の存在を初めて認識した表情で、まばたきをする。彼が腕の中に抱き込んでいる静夜の顔は、智帆からは見えなかった。
 雄夜が彼を胸に抱きこんでしまっているのだ。
 ――まるで手負いの獣が、必死に我が子を守ろうとする姿だ。
 溜息を尽き、大袈裟な仕草で智帆は首を振る。
「雄夜って、前から動物みたいな奴と思ってたけど、そこまでとは思わなかった。いいか、人間としての判断力があるなら、いますぐその手を離せ」
 前半の言葉はふざけていたが、後半の言葉には拒絶を許さない激しさがある。だが智帆に圧倒されるほどヤワではない雄夜は、眼光を鋭くするだけで動こうとしない。
「……力をこめて抱きしめすぎて、静夜が圧迫されるって考える脳ミソさえ持ってないか?」
 ひやりとした声。
 静夜は両足を地面に投げ出していた。上半身は九十度近く横に捻られて、雄夜に抱きしめられている。意識があれば、三秒で苦しいと騒ぎだすだろう。
 智帆の指摘に我に返って、雄夜は静夜を見つめた。
 血の気を失った顔。紫色がかった唇が、浅く早い呼吸を繰り返している。酸素が足りなくて苦しがっているように雄夜には見えた。口を引き結び、悔しくてならないと首を振る。
「雄夜。大丈夫だって。それで静夜が壊れることはない」
 可愛いものが苦手な雄夜は、誰よりも、側近くにあるモノが壊れるのを恐れている。それを智帆は知っていたので、珍しく優しい声を出した。
 しばらく智帆を見やってから、雄夜は立ちあがった。どうやら落ち着いたらしい。静夜を背負いあげると、口を開いた。
「どこに向かう?」
「内藤医院に行こう。どうやら、思っていたより早く事態が動いてるみたいだからな。静夜が自然回復するのを待つ時間はなさそうだ」
 先導するように歩き出す。
 一瞬、倒れたままの女性が目に入って、智帆は顔を歪めた。康太はすぐに来るだろうが、地面に倒れさせたままというのは不敏な気がする。
 少し悩み、智帆はちらりと雄夜を見た。智帆の思惑を感じ取ったのか、無言で彼は首を横に振った。
「雄夜って犬っぽいくせに寒がりだからな」
 文句を口して、智帆は自分が羽織るジャケットを脱いで、萌黄色のスーツの女性に掛ける。
「智帆。邪気は炎を操った」
 おもむろに雄夜が口を開く。
「――どれくらいの炎だった?」
「俺が朱花一体のみを呼んだ時と同等レベルだ」
「それはまた……」
 一旦言葉を切る。立ちあがり、意識を失ったまま背負われている静夜の顔を見て、
「厄介だな」
 と智帆は言った。
 
 
「智帆」
 名前を呼ばれて、ゆっくりと振り返る。右腕を掛け布団の上に出し、点滴を受けたままの体勢で、静夜が目をあけていた。
 静夜はその時の感情によって、他人に与える印象がひどく変化する。
 今は目覚めたばかりだからなのか、それとも疲れているからなのか、やけに脆そうな印象だった。
「……なるほど」
「なにが?」
 突然に納得した智帆に、静夜が不思議そうにしながら、上半身を起こそうとした。智帆は気づいて、背の下に支えになる枕を入れる。
 人心地ついた静夜が、誰かを探す素振りをした。
「そいつが居なくなった理由を、理解したわけだよ」
 智帆の含みのある言葉に、静夜は苦笑した。
「雄夜が逃げ出したわけだね」
「今の状態を見て納得したさ。確かに今にも壊れそうな顔になってるもんな」
「うるさいよ、智帆。雄夜は全然……慣れないんだな」
 呟く静夜の声がふと暗くなる。
「なぁ静夜。前々から思ってたんだけどな、なんだってあんなに雄夜は壊れる可能性に恐怖するんだ?」
「――立ち入ったことを聞くね、智帆」
「迷惑か?」
「図々しいとは思うかな。まあ、いいか。――小さいころさ、僕は一度死にかけたことがあるんだ」
「死にかけた? なんか持病でもあるのか?」
「いいや、全然。少々アレルギーを持ってるくらいだよ。病気じゃなくて、死にかけた原因は怪我さ」
 少し、少女のような眼差しを細める。
 ――天を夕焼けが赤く焦がしたのを、覚えてる。
 胸元を必死に押さえた。とにかくそこが熱かった。
 赤い色に染められていく。手が、服が、地面が。丸い円を描くように広がって、池を作っていく。
 夕焼けの赤は綺麗だと思った。
 なのに自分からこぼれて行く赤は綺麗じゃない。
 苦しかった。足が体を支えられず、気づけば膝が崩れてしまう。助けが欲しくて片手を伸ばして、凍りついてしまった子供を見た。
「公園で遊んでいた子供が切られたって、新聞には乗ってた。捜査は始まったけれど、凶器は見つからず、そして犯人特定も出来なかった」
 言葉を切って、静夜は自嘲気味に笑った。
「見つけられるわけがなかった。凶器なんて発見出来るわけもなかった。だってそうだよ、智帆。あれは殆どの人には見えないんだから」
 更に声を募ろうとした静夜を、とっさに智帆は止める。
「悪かった。もういい静夜」
 その先は語られずとも、智帆には想像出来る。
 荒ぶる心を持つ邪気から式神は生まれ、その心は今尚破壊衝動に蝕まれている。それを雄夜が肩代わりすることで、主従関係が成り立っているのだ。
 もし、雄夜が破壊衝動に負けてしまったらどうなるのか。
 その答えが――静夜が死にかけた過去だ。
「雄夜はあの時のことを覚えてないんだ。ショックが大きすぎたんだと思う。高熱を三日間出して……目覚めた時には何も覚えていなかったらしいんだ。でもね、自分が人を壊せてしまうこと。――実際に壊れることの恐怖はトラウマになって、雄夜を弱くした」
 静夜の瞳が、遠い過去を探すように揺れた。
「双子なのに、双子じゃない。雄夜はあの日から、僕を守ることを考えるようになった。これが、僕が対等じゃないことを憤ってる理由だよ」
 情けないかもねと静夜が笑う。
 智帆は首を振った。
「当人が真剣に悩んでいることを、情けないなんて決めつける権利は誰も持ってないだろ。まぁ俺個人の意見を言って良いなら」
 ちらりと許可を求める視線を送る。静夜は肯いた。
「俺はまっとうな理由だと思うな。ようするに雄夜はかつて静夜を殺しかけた事実が怖くて、静夜は雄夜が死にかけた事実を気に病み続けてるのが嫌なわけだ」
「そうだね」
「で、話題を変えるけどな。静夜、何を見た?」
「智帆はどこまで知ってる?」
「あの娘が邪気ってことと、炎の力を手に入れたことだな。あと、俺自身で赤い霧を確認してる」
「赤い霧は、あの邪気そのものだよ。僕の目の前で空気と同化し、光となって襲いかかって来た。あの邪気は確実に理解してる。僕と雄夜が邪気に対処する力を持っているってね」
 排除の為にあの娘は動いた。
 ――かなりの知能を持っている。
「光球は結界で防いだけど……」
 静夜の声が小さくなる。智帆は続きを促すように友人を見やった。
「邪気は、途中で現れた女性の中に入った」
 前頁 | 目次 | 次頁
竹原湊 湖底廃園
Copyright Minato Takehara All Rights Reserved.