[第一話 サクラ咲く]

前頁 | 目次 | 次頁
No.02 桜花乱舞

 熱に続けて、服に着火した感覚。まずいと覚悟を決めた直後、灼熱の代わりに突風が体に叩きつけられた。やけに湿度の高い、冷却された風だ。
 漆黒の髪が風に揺れながら、またたく間に濡れて行く。じゅっという音がして、邪気が放った炎は消えた。
「……?」
 驚いて見開いた視界の中、人が駆けよって来ているのが見えた。共同施設である白鳳館から、大学部水鳳館に続く道を走ってきている。
 雄夜の片割れと、友人の姿だ。
 走ってきた一人、ココアブラウンの髪を風に揺らせた智帆が雄夜を確認する。「間に合った」と呟くと、静夜が隣で安堵の息を付いた。
「あの馬鹿」
 ぽつりと呟かれた声に、智帆は静かに友人を見やる。
 雄夜は静夜が無理をするのを極端に嫌う。だが雄夜自身は己の怪我に頓着しない。静夜が怪我をするのが辛いなら、何故静夜も雄夜が怪我をしたら辛いと想像しないのだろうと智帆は思う。
「お前も辛いな」
 率直な感想を述べる。紅茶色の瞳を持ち上げ、静夜苦笑を浮かべ首を振った。二人、走りだす。
 静夜の水と智帆の風を、掛け合わせて生んだ霧状の風で雄夜を救った。だが同じ手が二度通じるとは限らない。早急に合流する必要がある。
 上空で、炎の朱花が主人の危機に高く鳴く。突然のことに硬直していた雄夜は、我に返って朱花の名を呼んだ。
 式神の形は光の粒子になって消え、再び主の手元で形を作る。
 目の前で炎が産まれたり、元教え子が凄絶な酷薄さを抱いていたり、突風が吹いたりと、忙しい現実を前に丹羽教授は呆気に取られていたる。
「この異常な自然現象は何だ? 予報では何も言っていなかったが」
 呟く丹羽を、雄夜は朱花を肩に止まらせたまま見やり、本多里奈から視線を離すなと叱咤し、「声を掛けつづけろ」とも言う。
 完全に邪気と女が同化してしまったら、邪気を破壊した際に女の心は壊れてしまう。それを防ぐには、里奈が意思を持つことが必要だ。式神などの力よりも、里奈が信頼する人間が、名を呼んでいた方が余程効果がある。
 理由説明を排除した雄夜の指示に、丹羽教授は流石に憮然とした表情になる。だが確かに声をかけていた時の方が、里奈は普通の様子を見せていた。考えあぐねて首を傾げ、「名を呼べばいいのか」と尋ねる。
 ワンッ!と、雄夜の代わりにシベリアンハスキーのスイが吠えた。答えたつもりなのかと丹羽が視線をやると、犬はもう一度吠える。「そうか」と呟き、丹羽は再び里奈の名前を呼ぶ。
 目立った変化はないが、若干邪気の意思に操られて動く体の動作は鈍くなった。まだ大丈夫だろうと確信する。
 邪気は丹羽を狙って炎を繰り出す。
 雄夜は教授の肩を掴み、強く突き飛ばした。朱花が牽制と主人を守るために翼を広げ、同属性の炎の吸収を図る。
 邪気と朱花の炎がぶつかる様に、遅れて走ってきた中島巧が息を呑む。
「雄夜にぃ!」
 叫んだ子供の声に、智帆が一瞬足を止め、思いついた表情で振り向いた。
「巧っ! 大地を呼べ」
「――え!? いいの?」
 制御できない能力を、軽い気持ちで使うなと巧は先刻釘を刺されたばかりだ。
「俺が制御の補佐をする。この段階で、静夜を疲れさせて封印っていう手段を失うのは上策じゃない」
 智帆が突然立ち止まったことに怪訝な視線を向けていた静夜が、智帆の意図に気付いた。左の掌中に集めていた水の力を離散させる。
 ――邪気の攻撃を防ぐ為に力を使い果たし、睡眠状態に陥って封印が使用不能になるのは確かに良くない。
 不安定な能力とはいえ、巧の持つ大地の能力にも防御機能がある。これを利用しない手はなかった。
「智帆、巧、任せた」
 静夜は声をかけると、雄夜の前に飛びだした。凍りついたような里奈の顔が見える。邪気が人の中に入り、支配した結果を目の当たりにして、静夜の心は少しだけ痛む。
 なにせ彼女は、あの場所に居合わせたというだけで、巻き込まれてしまった被害者なのだ。
 ――巻き込まれただけ?
 何かが静夜の中で引っかかった。
 それが何であるのかを考える暇もなく、邪気が動く。再び炎の塊が丹羽を狙った。だが、丹羽の前に立つ雄夜も静夜も今度は動かない。
 大地が隆起した。
 三名に襲いかかる炎に立ちふさがり、アスファルトを食い破って地面が顔を出す。突然の地殻変動に激しく混乱して、丹羽教授は顔の筋肉をひくつかせた。
 少し離れた位置で、一般人が混乱するのも仕方ないと智帆と巧は思った。
「巧ー!」
 遅れてきた将斗の声。
 邪気に対応可能な者が全員集まった。これなら、対処方法の選択肢が増える。よし、と思ったところで久樹と爽子の姿が目に入り「なんだって!?」と声を上げる。
 智帆の声に驚いた静夜が、振り向いて絶句した。
 炎は邪気に力を与える存在。しかも能力者は力をコントロール出来ていないと来ている。
 透明な声でまずいと呟く。
 攻撃を大地の盾によって防がれていた邪気は、里奈の体を力で緩慢に動かし、久樹を見やった。
 ――力の源だ。体の支配権までは得ていないはずの邪気が、里奈の唇を少し持ち上げて笑う。
「智帆っ!」
 静夜が警戒を込めて叫ぶ。
 攻撃目標が、丹羽教授から久樹に切り替えるのは明白だった。智帆も理解していて、巧の肩を一つ叩いてから走りだす。
 里奈の体を自在に操れぬ邪気は、微かに空に浮いて滑るように久樹に向かった。
 邪気が辿りつく前に、智帆が二人の前に滑りこむ。
「おわ!?」
 目的のほうから駆けよって来られて、久樹は驚いた。智帆はあからさまな怒気を瞳に浮かべて、大声で怒鳴る。
「なんで来た!? 俺は言ったよな、あんたの能力は邪気に力を与えるって!! わざわざ邪気を強くして、助けられる相手を、助けさせないつもりか!?」
 胸倉に掴みかかって来そうな剣幕に、驚いた爽子が止めようと智帆の腕に抱きつく。拍子に、接近してくる里奈を見つけた。
「本多……さん?」
 驚きすぎて、声が震える。
 考えても居なかった光景がある。
 気が強そうに見せかけて、気弱な心を守っている里奈。そんな彼女が、心底冷たい空気をまとって佇んでいる!
「この感覚。これって、久樹!! あの桜が開いたときに感じたっ!!」
『あ・り・が・と・う』
 邪気が、不自然に一言ずつ切って囁く。
 囁かれるたびに、生理的な嫌悪が久樹の中に忍び込んでくる。美しい声なのに、心に響けば不快になる。ぐるぐると思い出される不快な記憶。例えば学生課で感じた寒気、例えば桜の中で背後から伸ばされた手の恐ろしい白さ。
 膨張する。恐怖が、膨れ上がって久樹を攻める。
 ぽっ、と。久樹の周囲に火が灯った。
 炎の能力が目覚める。
 邪気に侵入され支配された里奈がニタリとする。それを確認し、ついで「ありがとう」と久樹に囁いた。
 その真意に気付いて、智帆はさっと青ざめる。
 織田久樹の持つ炎の能力は極めて不安定だ。
 本人の自覚のなさが証明する通り、久樹は炎を繰れるわけではない。炎から力を分け与えられる邪気からしてみれば、それは願ってもない状況であるはずだ。
 炎の力を自在に操る相手に近寄れば、邪気が消されることもある。だが、久樹は炎で邪気を消す方法を知らないから危険はない。
 久樹の側に産まれた蛍のように小さな炎が、流星のように里奈の中に吸い込まれていく。
「――静夜っ!!」
 智帆が、静夜の名を呼ぶ。
 動揺を宿さぬ穏やかな静夜の顔を見て、智帆は続けようとした次の言葉を言い淀んだ。
 静夜の封印能力だけが、久樹の炎が邪気に力を与える現状を食い止めることが出来る。だが体力を回復していない静夜は、封印能力を何度も使うことは出来ない。
 邪気によって暴発を促されている久樹の炎を封じるには、かなりのエネルギーが必要となる。――邪気自体を封じる術はなくなると考えて良かった。
 思案する智帆の前で、久樹は恐怖に耐えきれなくなって、膝を折り頭を抱えた。
 爽子が悲痛な声を上げる。将斗は久樹を叱咤した。巧はいざとなったら爽子を守れるようにと精神集中を続けている。雄夜は状況を静観し、静夜は智帆の言葉だけを待つ。
 ――封じるか、否か。
 冷や汗が智帆の額に伝う。
 力を増幅させる邪気を放置し、里奈の心が支配され、意識が戻らなくなっても良いなら、久樹の能力を吸収する邪気を留める必要はなかった。
 静夜の能力で邪気の力を削ぎ、削いだ所に風で威力を増幅させた朱花の炎をぶつければ良いだけなのだから。
 他人の心を重視するか。――それとも。
「本多君っ!!」
 見捨てるか、と考えたところで悲痛な声が響く。
 詳しい状況は分からずとも、異常事態が発生し、元教え子が危険であることは丹羽教授にも伝わってる。
 智帆は里奈を心配し、真っ青になっている丹羽を見た。
 ――決めた。
「炎の封印を頼む」
 低く、短く言葉を発する。
 心得ていた静夜は、細い手を持ち上げて掌中に光を集めた。空気中の水分が震え、光を受けてきらめく。万華鏡のようにきらきらと輝く水の粒子を見つめながら、静夜は水を呼んだ。
「水よ。炎を封じろ!」
 命じる声と同時に、光を放つ水の力が久樹めがけて閃光を落とした。久樹の体はびくりと跳ね、操り糸の切れた人形のように倒れる。
 爽子が悲鳴をあげて彼の名前を連呼した。
 久樹は答えない。
 邪気は力の源である久樹を封じられて、眼に怒りをたたえた。次に狙うのは静夜だろう。次の手を察知した雄夜が防御体勢に入っていた。
 爽子は混乱するまま静夜を睨む。普段は冷静な彼女だが、久樹が関わると途端に感情的になる傾向があった。
「久樹に何をしたの!!」
 静夜を詰問しようと飛びつきかねない勢いに、智帆が危害なんて加えていないと反論しようとした。その足首を、何者かが掴む。
 目を降ろす。骨太で、少し大きめな男の手が見えた。
「爽子」
 男は、低く、けれどしっかりとした声で爽子を呼ぶ。
 先程までぴくりとも動かなかった、織田久樹だ。
 名を呼ばれて、爽子の体が震える。ゆっくりと視線を落とした。左手を付き、右手で智帆の足首を掴んでいる。男の背はゆっくり動いて、上半身を起こした。
「久樹?」
「大丈夫。なんともない」
「――本当に?」
 泣き出しそうな声で爽子が屈みこむ。不安な子供のような顔をする幼馴染に笑顔を向けて、久樹は爽子の肩を掴んで立ちあがった。
 今、久樹は晴れやかな顔をしていた。
「なんか実感した」
「え?」
 追って立ちあがった爽子の瞳が疑問に揺れる。久樹は親指で自分自身を指差した。
「俺は確かに炎の能力を持ってるんだな」
 恐怖した心が、炎を生もうとした。静夜の水は炎を抑えこみ、封じていこうとしたのだ。
 それを久樹は意識のある状態で経験した。
 あれはまるで、自分の尊厳が根元から踏みにじられたような不愉快さだった。思いだすだけで体が震える。
「今ごろ実感したわけだ」
 爽子と見つめあう久樹に、智帆は低い声を掛ける。剣呑な眼差しだが、久樹は余裕のある表情を浮かべた。
 既に丁寧な言葉使いなど排除されているのも、気にしている様子はない。
「仕方ないだろ。今まで、俺は俺が炎を生む様を見たことがなかったんだ」
 ――自分の眼で確認しなければ、信じない。
 久樹のスタンスを垣間見た気がして、智帆はふんっと肩をすくめる。
「だったら邪気に炎の能力を引き出されるような事態に、二度とならないでくれ。自由に使えないことで、多少の力が邪気に流れるのはこの際問題視しない。でも激しい力を出してしまったら」
 智帆は体を斜めにして、静夜に攻撃を牛掛ける機会を伺う里奈を見やった。爽子は里奈の顔を見て、懸念すべき現実を思いだして声を上げる。
「そうよ。本多さんに何があったの?」
「邪気が彼女の中に入ったんだ。それで心を縛られてる。もし久樹さんが炎の能力を解放して邪気に力を与えたら。本多さんは二度と元には戻らない」
「二度と?」
 爽子が驚く。智帆は無言で肯いた。
「ねえ、智帆君たち。もしかして、本多さんを助けようとしてくれているの?」
 助けられるものも、助けさせないつもりかと、智帆は怒鳴った。あれは里奈が犠牲になる事態を恐れたからこその、怒りではなかったろうか。
「助けようとか、そんなんじゃない。犠牲にならないで済むなら、それで済ませたかっただけだよ」
「智帆君。それを、助けたいっていうのよ」
 爽子の鋭い指摘に口をつぐみ、智帆は腕を組む。にやにやと笑って様子を見ていた久樹を、ぎろりと睨んだ。
 智帆達をよそに、お互いに走って合流していた巧と将斗が、いきなり大声を張り上げる。
「雄夜にぃっ!」
「静夜兄ちゃん!」
 緊張に満ちた声に、轟音が重なった。もうもうとした煙が沸きあがり、視界が完全に白く塗りつぶされる。
 肌に伝わってくる、凄まじい力が動く気配。
 そこまで能力を上げていたのかと、智帆が認識の甘さに舌打ちをする。煙の中から、丹羽教授が里奈の名を呼ぶ懸命な声が聞こえてきた。
 雄夜と静夜は無事なのか。里奈の心は持つのか。
 とにかく急がねばと駆け出そうとした腕を、いきなり久樹に掴まれる。
「なんだよっ!」
 焦っている智帆に、久樹は早口でまくしたてた。
「参考になるか分からないけどな! お前らが邪気って呼んでいるあれ。気を失った後、あの女の夢を見たんだ。”殺さなくちゃいけない。全ては醜くなっていく”とか言ってた。まあ、夢だし。参考になるかは分かんないけどな」
「夢だって?」
 邪気によって力を引き出された際に見た夢ならば、関係がないとは言いきることは出来ない。――ただ、どう関係するのかが分からなかった。
 智帆はとりあえず肯いて走りだす。巧と将斗には、久樹と爽子の側にいるようにと叫んだ。
 視野をゼロにする煙に閉じ込められた中で、静夜は炎を封じる為に必要だった力がいらなくなった事に気付く。
「自覚した?」
 静夜の呟きに、雄夜が視線を里奈の方角に向ける。
 二人は丹羽教授を間に挟んで守っていた。久樹の炎を封じていた力を静夜が止める。雄夜は炎の朱花の力によって、邪気の攻撃を相殺していた。
 ――邪気の能力は桁違いに上がりつつある。
「雄夜、このままだと、本多さんの心は二度と戻らない。ちょっと手荒だけど、徹底的に攻撃を仕掛けて邪気の力を弱めるしかない」
「徹底的に? あの女はどうする?」
「邪気を完全に排除してしまうわけじゃないんだ。それに寄生している体に死なれたら、一連託生になっている邪気だって消えるよね。邪気があの女の人を死なせしないさ。まぁ」
 一旦言葉を切る。
 少女そのものに見えるあでやかな顔に、不敵さを浮かべて静夜は雄夜を見上げ。
「怪我はするだろね。でも一生心を失って生きるより、怪我しても生きていけるなら。その方が良いんじゃないかな」
 二人の会話に耳を傾けず、ただ攻撃が来る方向に声を向ける丹羽をちらりと見やり、
「側にいる人間にとってもね」
 と言葉を締める。
 静夜は光に包まれた両手を持ち上げた。右手に純白、左手に青。両の光を胸の前で衝突させる。
 白と青が閃光となって弾けた。
 きらきらと輝き、光は淡雪のようになりながら三人の体に降り積もって行く。髪に、肌に、服に、地面に。触れたと同時にソレは発光して行って、円形の光のドームを織り上げる。
 水の結界。
「雄夜っ」
 前頁 | 目次 | 次頁
竹原湊 湖底廃園
Copyright Minato Takehara All Rights Reserved.