[第一話 サクラ咲く]

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No.05 桜花乱舞

 凄まじい炎が周囲を火の海に突き落とす。
 本能が火を恐れたが、肌が焼ける感触はなかった。――自らの力は、自らを傷つけないと少年達は言った。それが実感として思い出される。
「そうか。これが、俺の炎なんだ」
 炎はむしろ肌に心地よい。
 同じ色をした靄が、夜のとばりのように降りてくる。


「ねぇ、本当に出来ないの?」
 ――声がした。
 久樹が振り向くと、炎の中に映像がある。
 大木があり、側に長い髪に眼鏡をかけた娘と、日本人形のような娘が佇んでいる。
「そうよ。だって、最後がなくなったから」
 随分ときつい印象を与える口調で、日本人形のような娘は首を振る。手にはコピー紙を綴じた冊子があった。
「でも、あんなに頑張ったじゃない」
 眼鏡の娘は、否定されてもめげない。
「頑張ったからって、全部が上手くいくわけじゃないし」
「でも報われないよ」
「誰が?」
 冷たく尋ねて、日本人形のような娘は腕を組む。迫力に負けて、眼鏡の娘は二歩ほど後退した。
「誰がって……」
「頑張ったって、最後がないんじゃどうしようもないのよ。――私だって悔しいの。ここまで頑張ってきたのに。やめるなんて嫌に決まってる」
 確かにと娘は言って、初めて優しい目で眼鏡の娘を見つめた。
「悪いって思っているの。だって最初、芝居に使うなんて嫌だって言ってたんだもの。終わってるけれど、気に入っていないって言った。もうちょっと間を置いて、冷静になったら最後を治したいって。完結しても完成はしていないものを、芝居に使われるなんて嫌だって言ってたのに」
 眼鏡の娘は目を伏せて、黙って聞いている。日本人形のような娘は、眉を寄せた。
「小説を読んで。私は凄く気に入ってしまった。どうしても舞姫役をやりたかった。芝居にしたかった。毎日頼みこんで、ようやく納得してくれた時は嬉しかったわ。納得してくれた後は、協力もしてくれて。シナリオ化も担当してくれて。感謝してる。だから、何時か小説が完全になったら。また芝居にしてみせるって、私は約束したよね。芝居が出来なくて悔しいのも、頑張ったのも私達だけじゃないことは、分かってるつもりなのよ」
 でもねと言って、日本人形のような娘は手早く冊子を地面に置いた。目を細め、背後にある大木に手を差し伸べる。
 先程まであった、勝ち気で我の強そうな様子が一変した。まるで人あらざる者のような雰囲気を身にまとう。
「桜。人の憎悪と、そして忌まわしい祈りを受け続けた悲しい木」
 良く通る声だった。娘はくるりと回ってみせる。
 カットソーにズボンという格好だが、なぜか肌襦袢の袖が空に舞ったように見えた。
「私は千人目の呪者。そして一人目の生贄」
 恍惚とした表情で、顔を桜の木にすり寄せる。
「私を殺し、そして全てを殺しましょう」
 まるで氷のように冷たい声だった。
 眼鏡の娘が震える。日本人形のような娘は、言葉を続けようとした。だが突如視界が暗転する。
 稲妻が光った。一時的に太陽が隠された薄闇の中で、二人の娘の姿が浮き出された。はっと息を呑み、続くだろうものに警戒を抱き、落雷を警戒する。
 ――凄まじい雷鳴。
「きゃあ!」
 眼鏡の娘は頭を抱える。
 日本人形のような娘は、毅然と空を睨んだ。
「最後がないのよ。最後を迎えようとすると、こうやって絶対に邪魔が入る。どうして? 不思議なことが起きるのは、芝居の中だけで充分なのにっ!」
 憤りを露わにして娘が叫ぶ。
 頭を抱えた眼鏡の娘は、足元にあった冊子を慌てて拾った。雷の轟音に続き、大粒の雨が降って来る。水からかばって、拾った冊子を胸に抱きこんだ。
「――本当は、あれ以上の……」
 眼鏡の娘の唇が、音にならない言葉を漏らす。
 
  
 大きくまばたきをする。炎の勢力は衰えておらず、湿り気を帯びた緋色の靄は熱を持ち、眼球そのものが蒸らされる気がした。
 先程まで目の前にあった映像が確かに消えていること確認したくて、強引にまばたきを繰り返す。――映像は、確かに今はもうない。
「何だ? 今の……」
 良く、分からなかった。
 今の映像は、白昼夢なではなかったと確信している。何故あんなものをと考えて、一つ思いだした。遮断された空間に取り残されたのは、巧が生みだした土壁の上に邪気の姿を見たせいだ。
 ――目。
 二つの黒い目だった。それが自分の姿を捕らえたのを久樹は戦慄と共に思い出す。背筋が寒くなった。
「そうだ、邪気は」
 湿り気のある空気のせいで、衣服がじっとりと重い。動くのにも普段以上の労力がいった。眉をひそめながら、久樹はぐるりと周囲を確認する。
 火の海を作る炎は、久樹を中心に小さな円を描いていた。狭い。両手を広げれば、指先が炎に触れる程だ。
 濃い緋色の靄で気付かなかったが、炎の奥に普段どおりの現実があるようだった。アスファルトを食い破って隆起した土壁の影がうっすらと見える。ならば、あの側に少年達がいるはずだ。
「あいつら、大丈夫なのか?」
 心配になる。彼らの明るさのせいで、今までは危機だと言われても分からなかった。だが炎の能力が加速度的に目覚めつつある今は、少年達の力が急速に低化して行くのが手に取るように分かる。
 手助けをしたくて、一歩足を出した。それに合わせて、円を描く炎も一緒に動く。
『殺す』
 声がした。
 先程の映像が再び現れたのかと思った。久樹は周囲を見渡す。だが炎の柱があるだけで、映像らしきものは何も見えない。
「なんだ?」
『時が全てを壊す前に』
 また声。
 冷や汗が額に浮かんだ。状況を理解するよりも早く、悪寒が久樹を捕らえる。
 一歩進む。それに合わせて、やはり炎も動いた。
『死ぬのよ』
 声がする方向に向かって歩く。炎を隔てた奥に土壁があり、漠然としか形しか分からない影が見えた。
 二つの影は小さい。多分あれは巧と将斗だ。うずくまっている影の隣に立っている影もある。あれは静夜と智帆だろう。一つはこちらに向かって来ていた。
「止まれっ!!」
 声を投げてきて、向かってきた影は目の前に立つ。身長がかなり高い。ならばこれは大江雄夜だ。
 もう一つ、影が合った。
 小柄な影。少年達と思わしき影の間を、すり抜けるように動き回っている。その度に、少年達の影がばらばらに散った。
「あれは」
 邪気に捕われた里奈だろうか?
 そういえば、自分は何故ここにいるのだろう。大体この炎はなんだ?
「止まれって言ってるっ! ぐっ!!」
 制止を聞きいれずに歩くと、くぐもった声が聞こえた。まるで痛みを必死にこらえている時の、悲鳴のようだ。久樹は驚いて後退する。
 目をこらすと、雄夜らしき影が左腕を右手ではたいているのが分かった。まるで腕についた何かを、落としているように見える。
「落とす? いや、消している?」
 自らが持つ能力は炎。自分の力は自分に危害を加えない。だが他人に対してはどうだろうか?
「まさかっ!」
 とんでもない想像に、胃がひきつれた。
「雄夜、火傷したのか!? それに、俺は一体どうなってる。なんだって俺の周囲を、炎が取り巻いているんだっ!」
 まるで檻に閉じ込められた動物のよう。
 炎に包まれて、邪気と少年達の争いの場所から、久樹は隔離されていたのだ。
 

 少年達は、邪気に取りつかれた本多里奈が、土壁の上に現れたことに気付いていなかった。ハッとしたのは、久樹が顔色を変えたからだ。
 邪気は物体を浮遊させることが出来る。
 だが里奈の体を浮遊させられるとは、思っていなかった。油断していた。
「しまった!!」
 攻撃の手段として、こちらが久樹の”炎”を利用するより早く、邪気に”炎”を利用されるわけにはいかない。奪われれば、対抗する手段を完全に失ってしまうのだから。
 久樹は炎の能力を自覚した。今の彼ならば、邪気に簡単に力を引き出され奪われる事はないだろう。
 だが、命の危機に晒されれば話しは別だ。
 邪気に最初に遭遇した際に爆発が起きたように、彼の身を守るために炎が発動する可能性はある。
 久樹を守らねばと、雄夜は思った。
 炎が暴発したら、防御手段を取らねばならない。現状でそれが出来るのは、巧と、力を温存する必要のある智帆だ。
「まさか」
 閃いたことがあって、雄夜は鋭い眼差しを頭上に投げた。
 土壁の上に女は恐ろしげもなく立っている。萌黄色のスカートが風に揺れていた。瞳は感情を失い、冷酷な笑みが唇に浮かんでいる。
 ――そうなのだ。
 戦慄を覚えた。あの邪気は、自分達が持つ対抗手段を、一つずつ潰している。久樹の能力を奪えれば良し、奪えぬなら炎を暴発させて、自分達が防御で力を使い果たすように仕向けているのだ。
 危機を感じて久樹を見やる。雄夜は息を呑んだ。
 激しい怒気がそこにあった。
 獰猛さなど持ちあわせていないようだった久樹の瞳が、激怒を宿している。瞳は邪気を睨み、彼の体を付き動かす怒りを現して、拳を握りしめていた。
 雄夜は言葉を口にしようとした。邪気はふわりと手を持ち上げ、くすくすと笑いながら久樹の力を奪うべく干渉を開始する。
 久樹が叫ぶ。そして、炎。
 一瞬のうちに、久樹は火柱の中に隔離された。何が起きたのかといぶかる間に、里奈は土壁からひらりと舞い降りて攻撃をしかけてくる。
 炎の中にいるのならば、とりあえず久樹の安全は保証された。ならばと、雄夜は双子の片割れや友人のいる場に駆け寄る。
 邪気の攻撃は激しく、早い。式神を呼ぶことが出来ないので、自力で避けるしかなかった。
「雄夜っ!」
 幾度目かの攻撃を避けると、智帆が背後をみやって声を張り上げた。炎の柱のある場所を睨んでいる。振り向くと、炎が移動しているのが分かった。
 隔離されている久樹が、動いているのだ。
「あの状態でこられても困る。止めといてくれ」
「分かった」
 式神が呼べぬ自分が、一番役に立たないことを雄夜は理解していた。智帆の言葉に肯いて、炎の元に駆けよる。
「止まれっ!!」
 鋭く叫ぶが、久樹は止まらない。舌打ちをした時、邪気が放った炎が服に移った。苦痛の為に声を漏らし、炎を振り払う。
 なぜか、前進を止めようとしなかった久樹が一歩下がった。
「――?」
 不思議に思って雄夜は目を細める。久樹が火傷したのか!?と焦った声をあげたので、彼が動揺した理由を知った。
「違う。お前の炎ではない。お前が生みだしたのは、浄化の炎だ。人の体は傷つけない」
「そう、なのか?」
 久樹が安堵の息を吐く気配がする。
 自分達の安否など気にしない男だと思っていたので、雄夜は違和感を覚えた。何かあったのかと尋ねた声に、突如響いた爆発音が被さる。
「なんだ!?」
 炎の奥で久樹が声をあげた。雄夜は振り向いて、目を見開く。里奈の体を乗っ取った邪気が、打った手が全て失敗に終わったことに怒りを燃やし、さらに激しい攻撃を開始したのだ。
 燃え盛る炎を二本の鞭にして、邪気は攻撃を繰りだす。炎の鞭は、うずくまっていた静夜と、傍らに立っていた智帆を狙った。
「静夜っ!」
 切羽詰まった声を雄夜があげる。 
 静夜と智帆は持ち前の運動神経を発揮して、めいめいに避けた。避けた後に、アスファルトを食い破って隆起する大地の盾が現れる。
 敵の攻撃が早く細かすぎて、巧が呼ぶ盾が間に合わない。邪気そのものになってしまった里奈が振りむいて、力を使うことで迅速には動けない巧を確認する。
「巧!」
 従兄弟が狙われていることに気付き、将斗が前に走り出た。邪気の狙いをそらそうというのだ。実際一本目の炎の鞭は検討違いの場所を打った。だが二本目の鞭が将斗の足を打つ。
 炎が少年の素足を舐めていく。
「うああああっ!!」
 こらえきれない激痛に、将斗が声をあげた。
 目の前の光景に硬直した巧と、痛みに転がった将斗めがけて再び炎の鞭が牙を剥く。
「智帆っ!!」
 静夜が智帆の名を呼ぶ。心得て、智帆は指先に風を集めた。将斗に近い位置の静夜は隣に滑りこみ、水の力をかき集め、攻撃を防ぐ。すぐに将斗が火傷した患部を冷やした。
 智帆は巧が攻撃を受ける前に吹き飛ばす。
 ざっ、というアスファルトの上を滑る音と共に、子供の体は雄夜のすぐ側までふっ飛ばされた。慌てて雄夜が巧の体を抱きとめる。
 久樹には影しか見えない。だが、聞こえてくる音で切迫した状況は痛いほど理解できた。
 式神を呼べぬ雄夜が、争いの場所に走ろうとする。
「待てっ!」
 腹の底から久樹は大声を出す。雄夜が驚いて足を止め、立ちあがろうとした巧も顔を上げた。
「このままじゃあ、全員じりじりと邪気にやられるだけだ。こうなったら、いちかばちか攻撃を仕掛けるしかない!」
「攻撃って。でも今の織田さんの力じゃ、あの邪気に対抗出来るわけねぇんだぜ!?」
 焦った子供の声の方向に視線を向け、久樹は首を振る。
「それでも、爽子が戻ってくるまでの時間稼ぎにはなるだろ? 俺は疲れてない。少なくとも、智帆や静夜よりは余力があるはずだ」
「――分かった」
 沈黙していた雄夜が肯く。本気かよと顔を上げた巧は、真剣な雄夜の眼差しに言葉を呑んだ。
 否定出来る状況ではないのだと理解して立ちあがり、俺も手伝うと巧は言った。雄夜は肯く。
「いいか、目を綴じて心を空っぽにしていろ。邪気があんたの能力に干渉をしようとした時、激しい怒りを覚えたはずだ。だから炎の柱が生まれた。俺達が干渉しても、同じかもしれない」
「邪気に対してだけじゃなく、雄夜や巧に対しても怒りを覚える可能性があると?」
 自分の意思で依頼するのだから、拒絶することはないだろうと久樹は続ける。雄夜は首を左右に振った。
「能力に干渉されるのは、生理的な嫌悪を覚えるのと感じが似ている。理屈じゃない。余程気の合う者でなければ駄目だ」
 雄夜の説明は足りぬと感じて、巧も口を挟む。
「俺らってまだ顔見知ってるってだけじゃん? 力が必要だから引き出してくれ、って言ってもさ。心が俺らを拒絶してるなら無理だよ。織田さんって、案外人見知りだったんだな」
「人見知り? そんな覚えはないぞ」
「他にも理由はあるかもしれん」
 久樹の否定に、雄夜が低く答える。どうするかと逡巡した僅かな合間をぬって、視界が真紅に染まった。
 炎がいきなり燃えあがる。
「将斗っ!!!」
 巧が焦った。静夜が巧をかばって腕に抱きこみ、智帆が自分自身の周囲に風を起こす。巧は慌てて手を地面につけ、三人を包み込む為に大地を呼んだ。
 ――全員、力を残す余裕がなくなっている。
 こうなれば里奈の心よりも、自分達の身の安全を守ることが優先順位になる。
「雄夜、急げっ!」
「分かっている」
 雄夜は迷わずに、久樹を包む炎の壁の中に手を入れた。浄化の炎は気温を上昇させても、物質を焼くことはないと知っているからこそ出来る。
 雄夜の手が久樹の肩の上に乗った。
 言われた通り、久樹は目を閉じてなるべく何も考えないようにする。すぐに、何かが無理に入りこんでくる違和感がした。まるで皮膚の下を走る毛細血管の中を、無数の虫がうごめき進んでいるようなおぞましさだ。
「ぐっ」
 油汗が額に浮かぶ。手を振り払いたい衝動を必死に押さえた。ここで拒絶しては駄目なのだ。
 神経が訴える苦痛の激しさに、叫びだしそうになる。もう駄目だと限界の訪れを感じた瞬間、電気がショートしたような、激しい音が響いた。
 言葉で例えるなら、バチッという音。
 雄夜の手の下にある自分の肩が、じわりと濡れて行く。急激にその手が離れた。
「つぅ!!」
 くぐもった苦悶の声。久樹は目を開けて、炎の柱が消えていることに気付いた。雄夜がうずくまり、苦痛を噛み殺しながら、右手首を左手で押さえている。
 その手は紫色だった。
 所々が膨らみ、水ぶくれになっている。破れた個所から鮮血がこぼれ、どうしようもなく地面を濡らしていた。
「――流血?」
 そういえば、と久樹は思い出す。
 前に静夜が自分の額に触れようとした時も、激しい音が響いた。静夜は手を隠して去ったのだ。血液の跡を地面に残して。
「俺の炎がやったのか?」
 雄夜の肩に手を置こうと屈むと、顔を上げた少年の目と視線があった。眼差しの鋭さに久樹は息を呑む。
「弾かれた」
「俺が拒絶したせいなのか?」
「違う。力を引き出すのに問題はなかった。だが炎そのものに触れた瞬間に……」
 言い淀み、火膨れした手を持ち上げる。怪我の痛ましさに目をそらしたかったが、久樹は逃げなかった。
「何かがそれを拒否した。炎ではない。何か別の力だ。具体的に何であるかは、俺には分からん」
「ということは、打つ手が」
「ない」
 きっぱりと言いきった雄夜の隣で、地面に手を付いていた子供の体が崩れる。
 地面に倒れこみながら、巧は感じていた。炎の猛攻を受ける三人を守る為に呼んだ大地の力が、指先から暴走を始めるのが。抑えることが出来ない。
「雄夜にぃ!! 大地がっ!!」
 助けを求めて声を振り絞る。
 雄夜が切れ長の眼差しを見開くと同時に、巧の手元の地面に亀裂が走った。奈落の底に突き落とす為の巨大な穴。
 亀裂は、静夜たち三人を飲みこもうと走る。
 雄夜は即座に地面を蹴った。邪気の攻撃をよけるのに精一杯の智帆に右に飛べと叫ぶ。将斗を庇って伏せていた静夜を立ちあがらせて突き飛ばす。将斗は背負った。
 完全に暴走した大地を再び鎮めるには、かなりの力が必要となる。今の巧にその力はない。ならば手助け出来る相手が必要で、それは将斗しかいないのだ。
「智帆、静夜、地面に気をつけろてろっ」
 注意を叫び来た道に取って返す。
 邪気の方も、激しく牙を剥いた大地に驚いて回避に専念していた。里奈の身体を利用する以上、彼女の肉体に被害を受けるわけにはいかないのだ。
 見守る久樹の視界は曇っている。
 炎の柱ではなく、土煙によってだ。大地の暴走を止めようと巧は苦しみ、駆け戻ってきた雄夜が将斗を降ろす。
「将斗、頼む」
 足の痛みに苦しむ子供に、頼むのは酷なことだ。けれど今はそれをするしかない。うっすらと目をあけ、将斗は手を伸ばして巧の手に触れた。
 巧も歯を食いしばりながら、将斗を確認する。
 久樹は現実に打ちのめされていた。
 何かが出来るかもしれないのに、何も出来ない。
「……爽子」
 幼馴染の名前が、何故か唇からこぼれた。
「久樹っ!!」
 まるで応えるように、爽子の声が響く。
 ふと、壊れた。
 久樹の中で炎を抑えていたもの。その何かが、確かに壊れて外れたのだ。爽子は切れ切れの息のまま走り、手にしていた数枚のコピー用紙を高く掲げる。
「舞姫なのよっ!」 
 そして、精一杯の大声を上げた。
 
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